2. 盆地の 西: 芦北・水俣方面
人吉球磨地方から最も近い海に行くなら、球磨村神瀬(こうのせ)の交差点から球磨川を渡り県道27号線(葦北-球磨線)で行くのが一番近い。神瀬交差点から、鶴ケ浜海水浴場のある芦北海浜総合公園までは、約20km足らずである。球磨盆地の西端は、九州山地の笠山(567m)や鶴掛山(463m)と国見山地の間にあり、あたかも八代海(不知火海)の芦北町へ続いているかのようである。太古の昔の人吉球磨地方は芦北や佐敷地方につながっていて、球磨川も八代海に注いでいた。そのことは図1の地形図を見ると明らかになる。球磨村の神瀬から2kmほど進むと大野である。ここは大野盆地で、数十万年前は湖だったところである。川は一級河川の佐敷川が八代海の野坂ノ浦へ流れ注いでいる。今の球磨川は、不思議なことに、球泉洞あたりから急に北上して八代に至るが、昔の球磨川の流れは、この芦北ー球磨村を結ぶ県道27号線や佐敷川に沿っていたと筆者は想像している。
図1. 人吉球磨盆地と芦北地方の地形 |
筆者が初めて見た海は八代海であった。四方山に囲まれた盆地人の憧れは広々とした海であり、海の幸、無塩(ぶえん)、鮮魚を刺身でたべることであった。親戚の魚屋にはときどき、イワシが砕いた氷と一緒に木製のトロ箱に入れられて店先に置かれることがあった。祖父は、指先で器用にイワシを裂き、刺身して食べさせてくれた。しかし、無塩(鮮魚)を食べることはめったにないことで、多くは干物(ひもの)や乾物(かんぶつ)であった。ちなみに、干物は、一夜干しみたいに完全に乾いていないもの、乾物は水分が全くない状態のものだそうである。
これら海産物は、人吉や球磨地方に、どこから入ってきたのだろうか。行商人の方は、どこで仕入れ、どこから売りに来ていたのだろうか。熊本大学の上野 眞也先生は「不知火海の漁業・流通とメチル水銀暴露リスク」(熊本大学レポジトリ 2016-3)という研究のなかで、当時の葦北郡芦北町や田浦町(現在は合併して芦北町)から人吉方面への行商ルートがあったことを明らかにされている。商い海産物は、塩物(しおもの)や干物で、カタクチイワシ(ダシの素にしたダシゴ)だったとのことである。無塩(鮮魚)はなかった。自転車やリヤカーでは鮮度を保つことは出来なかったからである。昭和20年代、干物を自転車で売りに来ていた人があり、その人は確か、津奈木(葦北郡)あたりから来ている人だと聞いた覚えがある。
注:「レポジトリ」とは、情報やデータの貯蔵庫という意味で、大学等研究機関が研究成果を 図2は、熊本大学医学部で水俣病を研究、水俣病と有機水銀中毒に関して数多く研究と、常に患者の立場からの徹底した診断業務をなさってこられた医師、原田 正純先生が作成された水俣病認定患者やその症状がでた地域である。ついでだから、水俣病について触れておくと、水俣病は、日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ株式会社)の廃液(メチル水銀)によって海の魚介類が汚染され、それを食べた人が神経性の病に侵されたものである。
水俣病患者の第一号は昭和28年(1953年)だが、その原因が廃液の中に含まれていたメチル水銀であることが判明したのは昭和31年(1956年)になってからである。
図2. 1995年当時の不知火海(八代海)周辺の水俣病認定患者分布 |
さて、図2を見ると、水俣から遠く離れた日奈久や鹿児島県の阿久根市及び対岸の天草にも水俣病認定患者があることがわかる。図中の●印が認定患者発見箇所、🔺印が魚の浮上箇所、×印が猫の狂死箇所である。この図は、水俣湾でとれた魚介類が店頭販売され、行商人によって運ばれ拡散していったことを示している。では、人吉球磨地方には拡散しなかったのだろうか。前述の、熊本大学上野先生の調査によると、芦北町針石(はかりいし)から、大野➤ 球磨村➤ 渡➤ 人吉方面➤ 大畑や球磨郡への行商ルートがあったされる。芦北の計石地区から球泉洞付近までの距離は約16Kmであるが、奥球磨地方へは2~3泊の泊りがけ行商であったそうである。
筆者の記憶では、当時の岡原村には津奈木方面からの行商人が自転車で来ていた。行商の魚はダシゴなどであったが、塩物や干物にはメチル水銀は蓄積していなかったのだろうか。北海道立衛生研究所の西村 一彦さん等の研究「水産加工食品中の総水銀・メチル水銀に関する実態調査」 (道衛研所報、62,61-63 2012)によると、カツオの水煮と削り節に含まれるメチル水銀を比較した場合では、乾物にした削り節の方が濃度は倍増している。人吉球磨地方に水俣病患者があるのだろうか。水俣病センター相思社の永野 三智さんによると、不知火海の魚を食べているのに、まだ認められていない天草や大口や人吉など対象地域外に申請相談者があるとのことである。八代海(不知火海)でとれたメチル水銀汚染魚介の行商によって水俣病が近隣へ拡散した可能性など、上野先生のレポジトリを読むまでは筆者は想像もしなかった。
今から約2千年前の水俣地方と人吉球磨地方弥生時代人同じDNAだった可能性が高い。それは、水俣地方の墓制(墓の作り方や埋葬の仕方)が人吉球磨地方と同じだからである。その墓制は「板石積石棺墓(いたいしづみせっかんぼ)」というものである。この埋葬方式は「盆地の南」で図示するが、板石を積み重ね、その中に石棺を置く埋葬法である。この方式の墓は、出水市、伊佐市及びえびのなど南九州と人吉球磨地方にある。このことは、先祖が同一民族であり、約2千年前の弥生時代から、この地方との交流があったことを裏付けている。詳細は先の「クマソは球磨祖、クマんモンのご先祖」の項でも述べたので参照していただきたい。
椎葉ほど有名ではないが、水俣にも平家の落人伝説がある。それは、「松の木どん」伝説という不思議な昔話である。その内容を、水俣市史「民族・人物偏」から抜粋し要約すると次のような侘(わび)しいものである。
葦北郡の中小場村(現在は水俣市)に小高い丘があり、そこに大きな松の木が数本生えていて、その木立ちの中に、草ぶきの家を建て、隠れ住む貴人らしい人と従者数人が住みついていた。この人達は一体何者なのか、着けている衣装や言葉づかい、それに立ち居振る舞いにも都人の気品が漂っていた。そんなことから村人は、平家の落人であろうと思っていた。やがて、貧しい生活に疲れ果てた松木の住人たちは、一人減り、二人減りして遂には主従二人だけになってしまった。そのうち、従者も倒れてからは高貴な人は、自らも食を絶ってしまったらしく、村人が「食事は済みなはったか」と聞くと、「はい、いま済みました」と答えていたそうである。しかし、炊事の煙りは誰も見なかったという。ある日、その貴人も世を去り、住人がいたという所を「松木どん」と呼ぶようになった。
水俣湾には、別項で述べるような不思議な海丘があるが、この「松木どん」も不思議な話である。おそらく、五家荘や椎葉地方に逃れた平家の落人であろうが、椎葉方面の平家の残党とは全く異なり、ひそかに隠遁生活をしながら平家の血脈を守り、巡りくる季節を待っていた平家落人の姿かもしれない。
人吉球磨地方から水俣に行くには、二つの国見山を越えるのが直近であるが、道はない。道はあるが、途切れ途切れの山道である。車で行くには、国道267号線(人吉-薩摩川内)で伊佐市へ行き、そこから国道268号線(水俣-宮崎)で向かうしかない。もう一つは、前述したように、国道219号線(熊本-宮崎)で球磨村の神瀬交差点から県道27号線(球磨-芦北)で大野-芦北方面に向かい、国道3号線を南下するしかない。
いずれにしても、水俣は球磨郡から最も遠い「となりまち」である。それがゆえに、人吉球磨地方では、メチル水銀に汚染された不知火海の魚介類を摂取する機会も少なく、水俣病のリスクも避けられたといえる。
(編者追記)人吉球磨から最も近い海に行くなら、球磨村神瀬から県道27号線(葦北-球磨線)で行くのが
一番近いとあるが、確かに、人吉球磨盆地から自転車で出るには、この道しかない。
高2時、阿久根市の大島でのサッカー部合宿のために、自転車でこの道を走りました。免田の自宅から往復何キロ?普段使っていた自転車ではなく、アルバイトで貯めた金で3段変速?かの自転車を買ったのを思い出しました。